ホーム真言宗智山派について
真言宗とは
仏教と真言宗

 仏教は、今から2500年ほど前にインドでお釈迦さまが悟りを開かれ仏陀となられたことを出発点としています。ですから仏教とは、その「仏陀の教え」ということになります。またその教えは、修行によって人間の苦しみを解決する教えでもあります。その意味では、仏教とは「仏陀になるための教え」でもあります。

 インドで生まれた仏教は、やがて、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わり(北伝仏教)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来しました。またインドからセイロン(現スリランカ)に伝わった仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへ伝わるようになります(南伝仏教)。

 このように仏教は世界各地へ広がりますが、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも特に密教であるといわれます。密教とは「仏さまの秘密の教えを明らかにした教え」という意味ですが、この教えはお釈迦さま在世時代のインドにすでに存在し、それが7世紀ごろに段々と体系化され、8世紀には中国やチベットに伝わったといわれます。そしてこの教えが弘法大師により日本に伝えられ、真言宗となるのです。

真言宗と弘法大師
弘法大師像
弘法大師

 弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。15歳で都に上り、18歳の時に大学に入学します。大学では中国の哲学、思想を学びますが、やがて立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになりました。

 そして24歳の時、「仏教こそが最高の教えである」という考えをまとめた『三教指帰(さんごうしいき)』を著すと、山野を巡り修行する出家修行者となり、各地で厳しい修行を重ねました。そしてある夜、大和国久米寺の東塔の下に仏教の究極の教えである密教を説いたお経、『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=略称は『大日経』)があることを夢で知り、この地を訪ね『大日経』にめぐりあいました。しかし『大日経』を読んでもその意味は十分にわからず、かといって、その疑問に答えてくれる師は日本にはいません。そこで師を求め、唐(現在の中国)の都・長安へ留学することを決心したのです。

 延暦23年(804)7月、31歳のお大師さまは九州長崎の松浦郡田の浦から遣唐使船に乗り長安をめざします。海上での暴風雨、長い陸路の旅など幾多の苦難に遭遇しますが、出帆して半年後、やっと唐の都・長安に到着します。

 長安では密教の師を求めて諸寺を歴訪し、ついに、正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にめぐりあいます。恵果阿闍梨は自らが受け継いだすべての教え、そして密教の奥義を余すところなくお大師さまに伝え、ここに、お大師さまは密教の正統な後継者となるのでした。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめます。そこでお大師さまは20年間の留学僧としての勤めを2年足らずで切り上げ帰朝するのです。

 帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍します。その活動は、宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。

 そして承和(じょうわ)2年(835)3月21日、高野山で62歳のご生涯を終え、入定されるのです。


真言宗智山派と興教大師
興教大師像
興教大師

 弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)です。

 興教大師は嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿島市に生まれました。16歳で得度(お坊さんになること)した興教大師は、やがて高野山に上り、大治(だいじ)5年(1126)、弘法大師の教えを学び、議論する学問所、伝法院(でんぼういん)を創建されました。こうして高野山は、多くの学匠の輩出とともに、昔の活気を取り戻していきます。しかし、長承(ちょうしょう)3年(1134)、興教大師が高野山金剛峯寺の座主になると、このような興教大師の改革を良く思わない一部の僧侶の激しい反対にあい騒動が起こるようになります。やがてこの争いは大きくなり、ついに興教大師は座主を降り、保延(ほうえん)6年(1140)、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。

 その後、根来山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月12日、49歳で入滅されたのでした。


根来寺大塔
根来寺 大塔

 興教大師覚鑁上人は、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このため、真言宗中興の祖とお呼びします。真言宗智山派の寺院で、宗祖・弘法大師と中興の祖・興教大師の両祖大師の御尊像をお祀りし、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」、「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えするのはそのためです。


真言宗智山派と総本山智積院
総本山智積院総門
総本山智積院 総門

総本山智積院名勝庭園
総本山智積院 名勝庭園

総本山智積院金堂
総本山智積院 金堂

 私たちの総本山は智積院(ちしゃくいん)といい、京都の東山七条(ひがしやましちじょう)にあります。智積院は足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内の寺院の一つとして、長盛法印により創建された寺院でした。

 興教大師亡き後の根来山は、学徳に秀でた頼瑜僧正(らいゆそうじょう 1226−1304)により大伝法院(だいでんぼういん)や密厳院(みつごんいん)が高野山から移築されいよいよ発展し、天正(てんしょう 1573〜)年間には坊舎が2000余も立ち並んだといわれ、政治的にも経済的にも大勢力となります。しかし、この勢力に目をつけたのが豊臣秀吉でした。秀吉は、天正13年(1585)、根来山を攻めると、山内の堂塔伽藍を灰燼に帰してしまいます。この時、智積院の能化であった玄宥(げんゆう)僧正は弟子とともに難を逃れますが、安住の地が見つからないまま、智積院再興の志をもちながら各地を流転したのでした。やっと安住の地を得たのはその16年後のこと。慶長(けいちょう)6年(1601)、徳川家康により現在の京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)を再興したのでした。

 智積院は根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺として、江戸時代には多くの学匠を輩出するようになります。

 しかし明治時代になると、新政府の神仏分離政策により土地を没収され、また、明治15年(1882)には金堂が焼失するなどの不幸にみまわれます。しかしこれらの困難を乗り越え、明治33年(1900)、真言宗智山派の総本山となったのです。山号を五百佛山(いおぶさん)寺号を根来寺(ねごろじ)といいます。

 こうして弘法大師の教えは高野山から興教大師の根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられ、現在、智積院は全国3000の末寺を擁する真言宗智山派の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所、総祈願所となっています。


私たちの宗団 真言宗智山派
・ご本尊

大日如来を始めとする、曼荼羅(まんだら)諸尊

総本山智積院 金剛界曼荼羅
総本山智積院 金剛界曼荼羅
総本山智積院 ご本尊・大日如来
総本山智積院
ご本尊 大日如来
総本山智積院 胎蔵生曼荼羅
総本山智積院 胎蔵生曼荼羅

・教え

 叡智そのものであり、根源の光そのものである大日如来は、太陽の光のようにあらゆる時代、場所にさまざまな姿で現われて、すべての生き物を救うために説法をしています。
 宇宙間のすべて花鳥風月草木に至るまで大日如来の説法です。そして弘法大師は、本来成仏している自己の発見を「即身成仏」という言葉で表しました。
 すなわち、密教以外の教えは「三劫成仏」(さんごうじょうぶつ)といい、無限に長い間の修行によらなければ成仏できないとしますが、弘法大師は、この身このまま「即身」に「成仏」が実現するとしました。
 なぜなら、私たちと大日如来は本来同じであるからです。

・根本経典

『大日経(だいにちきょう)』、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』

・読誦経典

『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』、『観音経(かんのんぎょう)』などの経典、「光明真言(こうみょうしんごん)」などの諸真言・陀羅尼(だらに)ほか

・ご宝号

「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」(弘法大師のご宝号)
「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」(興教大師のご宝号)

・詠歌・和讃

密厳流(密厳流遍照講)

・別院

真福寺(しんぷくじ) 東京都港区愛宕
山号:摩尼珠山(まにしゅざん)  院号:寶光院(ほうこういん)

別院真福寺
     別院真福寺
・大本山

成田山 新勝寺  成田市成田
川崎大師 平間寺 川崎市川崎区大師町
高尾山 薬王院  八王子市高尾町

・別格本山

高幡山 金剛寺  日野市高幡
大須観音 寶生院 名古屋市中区大須

・宗立教育機関

大正大学(豊島区西巣鴨)
智山専修学院(総本山智積院内)

・宗内教育機関

成田山勧学院(大本山成田山新勝寺内)