私たちの宗団(真言宗智山派)について

智山教化センター

宕薬師フォーラム報告

平成29年2月6日 別院真福寺
第27回 愛宕薬師フォーラム

思考と身体~頭でわかること、身でわかること~

講師
凱風館館長・神戸女学院大学名誉教授
 内田 樹 先生

引き裂かれる人間
 皆さん、こんにちは。内田樹です。本日のテーマは「思考と身体」ですが、思考と身体という二元論的な枠組みは、便宜的な二項対立であって、実は、思考も身体も人間という存在にとってはひとつのものです。養老孟司先生がよくおっしゃるように脳も臓器の一つですから、思考も身体なんです。
 しかしこれをあえて、「思考と身体」「脳と身体」「精神と身体」というように二元論的に分けて考えるのは、人間が二項対立でしか物事を考えられないからです。本来は対立していないものを無理に二項対立せざるを得ないのは、人間にとっての自然な状態が、絶えず二項の間で引き裂かれ、揺れ動いている、落ち着きの悪い状態だからなんだろうと僕は思っています。何を言っているのかと思われるかもしれませんが、人間は二項間でうごめくのが自然であり、それが人間的であり、豊饒なものであるという結論にもっていくための“まくら”として聞いておいてください。

過剰適応して耐える
 それでは、今、我々がどのような社会に生きて、どのような問題を抱えているのか、具体的なところから話をしていきたいと思います。
 ご紹介いただいたとおり、私は神戸で凱風館という道場を主宰していますが、そこでは「寺子屋ゼミ」という勉強会もおこなっています。道場に机を並べて、受講者の発表をめぐってみんなで意見交換をするのですが、先日は、息子さんを東京大学へ進学させた親御さんが、その受験勉強の過程で感じたさまざまなことを話してくれました。その中で印象深かったことは、受験生は小学生のころから受験によるふるい分け、格付けに過剰適応してしまうということでした。受験生たちは高学歴を手に入れることで、職業選択や居住や移動の自由を手に入れたいと思って受験勉強をしています。将来、大きな自由を手に入れるために今の不自由に耐えている。言い換えれば「将来的にルールを気にしないで生きられるようになるために、今はルールに過剰適応する」ということです。でも、そこから離れるために、迂回的にそこに居つくというのは、それほど合理的な戦略なのか。大学の研究者に多い例ですけれど、大学の研究職に就いて、自分の好きな研究をして、知的愉悦に浸ったり、思い通りの教育をして、あらまほしき若者を育成するためには、まず専任教員のポストを手に入れなければならない。まずは既存の学界で支配的な価値観を受け入れ、無意味で煩瑣なルールに従順に従ってみせなければなりません。自由を手に入れるために、まず自由を断念しなければならない。他の国でも事情はそれほど変わらないのかもしれませんが、日本はこの「自由を断念させる」社会的圧力が異常に高いように思います。
 現在の日本は、現在の社会のルールや価値観に過剰適応してみせなければ、そこから逃れるためのドアノブに手が届かないという仕組みになっています。今の日本がダメになった理由はまさにそこにあると思います。

 無意味なこと
 今の日本で子どもたちにまず要求されるのは、「それ、意味ないんじゃないかな」とか「それ理不尽でしょう」とか「不条理だ」と思えることがらについて、その言葉を呑み込んで、まず耐えるということです。受験勉強というのはまさにそのための訓練だと思います。「こんなことをして、何の役に立つのか?」という問いを自分で封殺して、「あきらかに無意味なこと」に耐える能力を訓練する。だから、現代日本のエリートたちは例外なく、子どもの頃から、「無意味なことに耐える」という長期にわたる苦役に耐えきった人たちなんです。
 無意味さに耐えるというのは、言い換えれば「葛藤しない」ということです。心と身体を硬直させて、脳の中のある部分だけを選択的に活動させ、ある回路だけを鍛える。受験勉強は子どもの心身にとってきわめて不快な体験ですけれども、それにこまめに反応していると苦しくて体がもたない。だから、自分を守るための生存戦略として意味のないことをすることが気にならなくなる。
 僕も昔、兄貴からそう言われたことがあります。僕は受験秀才でしたけれど、2歳年上の兄は勉強が嫌いでした。その兄が僕が高校受験のための勉強をしているときに部屋に入ってきて「樹、何やってんだよ」って言うんです。「勉強してるんだから邪魔しないで」って答えると、覗き込んできて「お前、その問題集何回目だよ」って。「3回目だよ」「3回目ってことはお前、答えを全部知ってるんだろ?」「知ってるよ」「えっ、じゃあ自分が知ってる問題の答えをただ書いてるだけなの?」「そうだよ」「お前、よくそんな意味のないことできるね」って言うんですよ。そしてこう言ったんです。「樹、お前は自分のことを『勉強ができる』と思っているだろ? でもね、それは違うよ。お前はね、ただ『意味の無いことができる』能力があるだけなんだよ。」そう言われたのは今からもう半世紀以上前のことですけど、今でもこうして憶えているということは、よほど僕の肺腑をえぐったんでしょう。
 「寺子屋ゼミ」での発表を聞いた時、そのことを思い出しました。受験勉強というのは「無意味なことに耐える能力」を考量する仕組みです。そして、現代日本社会は「無意味なことに耐える能力」が過剰に高く評価されている。

葛藤がない
 今の日本の社会を遠景に退いて見るとわかりますが、社会の上の方にいる人たちって、みんなそうなんです。嫌なこと、無意味なことに耐える能力において卓越した人たちが順調に出世している。政治、経済、学術、メディア、どの世界でもそうです。トップにいる人たちっていうのは、不快なこと、意味がないこと、理不尽なこと、非人間的なことをすることに心理的抵抗を感じない人たちなんです。
 「これはおかしい」と思うことってあるでしょう。上から命令されたことでも「これは人としてやってはいけないことだ」と思うことがあって当然です。そして、そういうことがあれば葛藤があるはずなんです。でも、今の日本のエリートたちは葛藤しないんです。
 本来であれば、「人として」それはおかしいということってあるはずなんです。惻隠(そくいん)の情とか、家風とか、自分自身の信念とか、そういう自然に自分のうちにある基準が外から強いられる命令と対立することがあるはずです。そしたら、ふつうはそこで苦しむはずなんですよ。しかし、今の日本のエリートたちはそういうことでは苦しまない。それは彼らが、自分の中にある情理や筋目や倫理や信条を、人としての、生き物としての実感を押し殺す訓練を幼児期からずっとしてきたことの成果なんです。指導的な立場にある人ほど、それに熟達している。葛藤しない人たちがエリートになって、この国の舵取りを委ねられている。そしてその予備軍が後から後から次々と送り込まれている。こんな仕組みを続けていたら、先行き日本はどうなるのか、僕は不安です。

リーダーの条件
 ふつうに暮らしていると、「こうしろ」と命じられたことにそれなりの整合性も合理性もあるようだけれど、どうしても俺は納得できない、呑み込めないということが頻繁にあるははずなんです。葛藤があるはずなんです。でも、それは人間が生きてゆく上での自然だと僕は思います。AかBかどちらかに片づけることができないときは、AとBの間で葛藤すればいいんです。葛藤するのが自然なんです。でも、現代人は葛藤ということを忌み嫌う。話を簡単にしたがる。AでなければB、BでなければAみたいに。プランAに反対なら対案を出せ。対案がないなら丸のみしろというような言葉づかいをみんながするようになった。いつからでしょう。この25年ぐらいでしょうか。
 久しく、大人の条件というのは、清濁併せ呑むとか、融通無碍とか、対立する二項のそれぞれの顔を立てて、中を取って調停できる能力でした。そういう人を社会的な指導者として戴いてきたわけです。それぞれに一理はあるが、違う原理がぶつかっている時に、次元も価値観も度量衡も違う、どちらにとっても同じ程度に不満足な解を導き出すことができる人が半世紀前ぐらいまではリーダーだった。「三方一両損」という逸話がありますが、関係者全員が同じ程度に不満であるような「落としどころ」を見つけ出し、それを受けいれさせることのできる技術知、そして、その提案が全員のそれぞれの願いを部分的にではあれ代表しているという包容力、こうした力を持つことが、日本だけではなく、世界で久しく指導者の条件だったわけです。
 しかし今、そういう条件をリーダーに求める社会はどこにもありません。今求められているのはシンプルなリーダーです。とにかく多数決で正否を決しようとする。51対49だったら51の勝ち。49の人間は負けたんだから黙っていろ、と。相対多数を取った側が正義だと言い切るようなタイプの人間がリーダーに祭り上げられている。ですからこの種のリーダーは自分を支持する51%だけを代表し、自分に異を唱えた49%の利害はまったく代表する気がない。けれども、リーダーというのは本来、反対者も含めて集団を代表することができる人間のことです。当たり前のことです。今さら僕が言うまでもなく、ロックやホッブズやルソーが説いた近代市民社会論の基本中の基本です。反対者を含めて集団を代表する。敵対者とともに統治する。それが近代市民社会の基本ルールです。
 でも、今時そんなことを言う人間はどこにもいません。政治家たちは誰もが自分の支持者の利害だけを代表すると公言している。自分を支持しない人間はその利害を配慮するどころか、積極的に潰しにゆく。そう平然と言い放つ人間が世界中で集団のリーダーとなっている。
 どこかの段階で、そういう人間しか上にあがっていけない仕組みになってしまったんです。端的に言えば、「馬鹿しか出世できない仕組み」なんです、これは。今の日本はまさにそうです。今の日本社会は馬鹿しか出世できない社会です。葛藤しない人間、無意味なことにいくらでも耐えられる人間しか出世できない社会です。理不尽なことや、非人道的なことを命じられても、何の内的葛藤もなく、それが実行できる人間が「自己管理能力が高い」と評価されている。

身体でわかること
 葛藤するということは人間の自然です。葛藤を通じて人間は成熟する。器が大きくなる。人として円やかに、ふくよかになり、感受性も敏感になるし、視野も広がるし見識も高くなる。
 宗教で言えば、修行というのはまさに葛藤そのものなわけですよね。自分が今一体何をやってるのか、リアルタイムではさっぱりわからない。行というのは、始めるに先立って、「この行には、これこれこのような効能があって、これこれこういうことをすれば、こういう能力が開花する」というふうにシラバス的にその効用が開示されているわけありません。いきなり始まる。何をやっているか本人には意味がわからない。でも、「わからない、わからない」と言いながら続けていると、ある日気づきが訪れる。身体の奥底の方から自分がしていることの意味がじわじわとわかってくる。振り返ると行を始める前とは別人になっている。ものの見方も変わっているし、ものを量る時の価値の度量衡も変わっている。それまでは意味の分からなかったことも、だんだん分かってくる。
 でも、それは「わからない、わからない」という葛藤があるからもたらされる成果なんです。行において最大の禁忌は「わからないことに慣れてしまう」ということです。何の意味があることなのかわからないけれど、やらないと叱られるから、何も考えずに我慢する。行は「我慢大会」ではありません。でも、葛藤が嫌いな人は「我慢する」という単一目的に手持ちのリソースを全部注ぎ込むというシンプルな解を選んでしまう。思考を停止し、身体が送ってくるさまざまなシグナルを無視する。心身を硬直させ、鎧をまとうように鈍感になって、「無意味」に耐える。でも、こんなものは修行ではありません。ただの「我慢大会」です。修行というのはそんな単純な解に帰着することではない。葛藤することです。
 教育というのはそういうものです。学びに先立ってこれから何を学ぶのかが事前に開示されることはない。学びの全行程とその結果獲得される効能が事前に開示されていて、それをインセンティブにしてなされるものは学びではありません。それはただの知識や技術の「買い物」に過ぎません。スーパーの棚に並んでいる商品をどれほど買いためても、消費者の本質は変化しません。買い物を始める前と終わった後で消費者が別人になるということはありません。手持ちの貨幣が減って、商品が増えるだけです。
 学びというのはそういうものではありません。学び始める前と学び終えた後で別人になっていることです。何のために学ぶのかその意味を言い表す言葉を学び始める前の段階ではまだ持っていない。その言葉を学びを通じて獲得する。そういうダイナミックな構造のものです。

身体の感覚から考える
 けれども現代では、シンプルな議論、シンプルな仮説、シンプルな価値観で世の中をスパッと切り取ることが好まれる。「それが正しい、それしかない」という言い方が好まれる。どちらが正しいか一言で言い切れる人間の方が「どちらにも一理ある」と葛藤する人間よりも重んじられる。そういう人を再生産し続ける仕組みが完成してしまった。危機的な事態だと思います。こんなことが続いていったら、集団は解体してしまう。
 私が申し上げたいことは単純なことなんです。葛藤してください、それだけです。正しい生き方をしろとか、こういう理論に従って生きろとか、こんな社会をつくれとか、そういう話じゃないんです。どういう社会をつくっていったらいいか分からない、どういう生き方をしたらいいか分からない、誰を信じたらいいか分からない、という当たり前のところで踏みとどまって欲しいと、そうお願いしているんです。
 でも、それが嫌なんです現代人は。その理由が僕にはさっぱり分からない。そんなに嫌ですか、未決定な状態で宙吊りになるのが。葛藤は楽しいですよ。ああでもない、こうでもないと頭を抱えているのって、僕は楽しいです。でも、誰も聞いてくれない。
 すぐに分かりやすく答えを教えろと言われる。今日みたいな講演をした後でも「『答えのない時代』だそうですけれど、そういう時代にはどう生きればいいのでしょう?」と平気で訊いてくる。新聞記者なんかでも長いインタビューのあとで、「では、一言で言ってわれわれはどうすればいいんでしょう?」って聞いてきます。正解がないんだから、葛藤してくださいというという話をしているのに、なんで答えを求めるんだよ、何聞いてたんだよ、と思っちゃいますね。
 これは現代人に取り憑いた深い病だと思います。どんな問題にもシンプルでクリアカットな解決策があると思っているんです。その解決策が実際に有効かどうかは知らないけれど、とにかく何か一つ答えを決めてもらわないと身動きできないと思い込んでいる。自分の中でざわめいている違和感とか、気分の悪さは無いことにしちゃうんです。
 表面的には合理的みたいだけれど、何だか腑に落ちない。逆に、何を言っているのかよくわからないけど、すっと腹に収まる。そういうふうな身体感覚を基準にして葛藤することがたいせつなんじゃないかと思います。
 ご清聴ありがとうございました。

 
(構成/智山教化センター)