私たちの宗団(真言宗智山派)について

智山教化センター

宕薬師フォーラム報告

平成26年5月26日 別院真福寺
第16回 愛宕薬師フォーラム

空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ―

講師
東京大学教授
斎藤 明 先生
空についての五つの誤解
空とは何でしょう? 最初に、空についての代表的な五つの誤解をみることで、空を考えるきっかけにしたいと思います。
一つ目の誤解は、「空は非存在(無)を意味するから、ある種のニヒリズム(虚無主義)である」というものです。これは、空を何も存在しないことと誤解したうえでの批判です。
そして二つ目が、「それゆえ空の説は、伝統的な仏説のみならず、すべての言語習慣や倫理・道徳を無意味なものとする。だから、空では倫理も成り立たない」という批判です。これもまた、空を非存在と誤解したうえでの非難なのですが、実際にはむしろ逆で、空、つまりすべては固有の本質をもたず変化しうるという理解に立つときに、言語習慣も道徳も修行によって凡夫が仏になることも可能になるというのがナーガールジュナ(龍樹)の考えでした。
三番目の誤解は「初期仏教の中心的な思想が無我、非我であるのに対して、空の思想は大乗仏教において初めて登場した」というものです。
修行時代のゴータマは、生老病死という問題を根源的に克服できる道を求めたわけですが、縁起の道理を見抜いたときに、四苦を克服できるのはニルヴァーナ(涅槃)という境地であり、日常の経験を超越した自分が四苦を解決するのではないということを悟りました。そして、苦しみは過度に自分自身に執着することから生じるのであり、ニルヴァーナのために無我、非我を説きました。このように、お釈迦さまが説かれたのは無我ということであり、空という考えはお釈迦さまの時代にはなかったという誤解です。
縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に「無我(心身の諸法は我をもたないこと)」「非我(心身の諸法は我でないこと)」を自覚することの重要性を語っていました。初期の仏教では、ここにいう無我の意味で空を説いています。
また、後にみるように無我を観想する三昧を「空三昧」と呼び、「無相三昧」「無願三昧」と並ぶ「三三昧」の一つとしてその重要性を強調していました。こうしてみると、空は大乗仏教になってから登場したわけではなく、ブッダの時代からすでにあった思想を、さらに敷衍して「諸法は固有・不変の本質をもたない」という意味で説いたという流れであることが分かると思います。
四番目は「空は無自性、つまりすべての事物が、それ自身の固有の本質を欠くことを意味する」というものです。一見すると正解のようにも聞こえますが、ただしこれは「空」という言葉の意味を述べているのであって、「空」という語が用いられたのは、「空でない」という誤解、つまり「事物には固有の本質がある」という錯覚が人びとにあるからだというのです。ただしポイントは、「空」という言葉の意味に尽きるのでなく、「空」という言葉で表現された「空そのもの」が探究され、体得されるべきである、というところにあります。このことは後に述べたいと思います。
最後の五番目の誤解は「空の思想は、唯識や如来蔵、仏性、本覚などの他の大乗思想と矛盾する」というものです。唯識説は、すべては識のみであるという思想で、識の存在を認める。如来蔵説はすべての有情(衆生)は如来の見えざる子(胎児)であると説き、仏性説によれば、すべての有情は仏の本性をもっているという。一方また、本覚思想はすべての有情は本来目覚めているという思想です。
空の説はこれらと矛盾するという批判ですが、これもまた誤解にもとづいています。これらの説は、煩悩に限定して空を説くなど、空の意味合いを微妙に変えるのですが、空の説そのものを否定することはありません。
空をめぐるこのような五つのポイントを念頭に置いたうえで、これからもう少し詳しく空についてみていきたいと思います。


空と空観の実践
空の語源はサンスクリット語のシューンヤで、「家に人がいない」とか「王国に王がいない」というような時に使われ、「期待される何かを欠いた」状態を示します。ですからシューンヤ自体は「空(から)の」「うつろな」「欠いている」「ない」「寂しい」などや、数学のゼロを意味します。この空を仏教では「AはBを欠いている」あるいは「AにはBがない」などと用いました。この場合のAには「諸法」が、Bには実体的な「自我(アートマン)」や実体的な「固有の本質」などが入ることになります。
空ということばの使われ方を歴史的に見ていきますと、初期仏教やその後のアビダルマ仏教の時代には禅定と結びついた実践的な意味合いが強調されます。例えば『スッタ・ニパータ』(1119)には「つねに心して自我に固執する見解をとり除き、世間を空と観察せよ。そうするなら死を乗り超えるであろう。」とあり、先ほどの三番目の誤解の箇所でみたように、「無我(非我)観」にもとづいて五蘊など自分を構成する要素、世間を構成する諸要素(諸法)が無我であると、空を観察することの重要性が説かれています。
やがて、自我と我所(自我の所有するもの)が空であると観察する「空三昧」、無常を知るために事物には固定した特徴がないことを観察する「無相三昧」、過度に期待することなく願い求めるものがないことを観察する無願三昧の、三つの瞑想を実践する「三三昧」が説かれるようになります。


『般若経』、ナーガールジュナの空
このような背景のもと、『般若経』は、実践徳目として智慧の完成(般若波羅蜜)の重要性を強調します。そしてブッダの悟りの本質もこの智慧の完成であるとし、智慧の完成を求める者すべてを菩薩と呼びました。そして菩薩は、悟りや涅槃をも含むあらゆるものに固定した特徴を見ることがなく、すべてに無執着であるとして、この無執着のあり方を「空」と呼びました。
『般若経』が智慧の完成とともに、無執着のあり方としての空を強調したのは、当時のインドで最有力の部派であった説一切有部が、諸法、すなわち心身の諸要素――ひろくは事物の構成要素――には固有・不変の本質がある、と解釈することへの強い批判があったからです。そしてこの『般若経』の空をより詳細に考察し、伝統部派による縁起解釈に対して、「縁起する、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない」という空の立場から改めて批判したのがナーガールジュナでした。
冒頭の四番目の誤解でみたように、空の立場からは、すべてのものは他に依存して生起するのだから、固有・不変の本質をもった存在、言いかえるなら固定的な存在としてあり続けることはない。氷と水の関係で考えてみますと、氷が水からできるのであれば、氷と水が別だとか同じだとか言うことはできません。そこには連続性もあり不連続性もあります。様態や働きによって名前も変わります。このように、氷と水は同じか別かという問いは、観点によって答えも違ってくるのです。これがブッダの本意であり、縁起の正しい捉え方なので、『般若経』の縁起(=空)解釈こそが本来のブッダの教えに直結しているのだと論じたのです。


概念(戯論)からの解放
また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮に「空」ということばで「ものごとは空である、すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「空」という表現そのものが究極(=勝義)であるわけでもない、とも言います。つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待されるということです。とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠で、それを世俗真理(世俗諦)とも呼びました。
もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います。ただし、空が正しく理解されるというのは、錯覚を錯覚であると気づくこと、それによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心のはたらきから解放されることを意味しています。
ナーガールジュナによれば、このような理解こそがひとびとを煩悩から解放し、じつはそれこそがブッダ自身の本来の煩悩論にほかならないというのです。



(構成/智山教化センター)