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智山教化センター

宕薬師フォーラム報告

平成26年12月5日 別院真福寺
第18回 愛宕薬師フォーラム

「魅力のある僧侶とは~明恵上人の生涯と思想、夢の世界に学ぶ~」

講師
聖心女子大学名誉教授
奥田 勲先生

明恵の生涯を辿る
 明恵は、一一七三年に紀州に生まれた鎌倉時代の僧侶です。幼いころに両親を亡くし、一一八八年に母方の叔父である上覚がいた神護寺(京都市右京区)に上り、仏道修行を始めます。その後しばらくの間、神護寺内にいましたが、山内が当時の幕府との関係により騒がしくなったため、一一九三年に紀州白上(しらかみ)の地で隠遁生活を始めます。
 そして一一九六年、その白上の地において、明恵の有名な逸話の一つである「右耳切断」を行います。これは右耳を切り落とすという異常ともいえる行動なのですが、実は釈尊に対する憧れや尊敬の思いからの行動です。釈迦如来に近づきたい、そう祈りながら耳を切ることを決断したわけです。そして、その痛みに耐えながら仏眼仏母尊の宝前で釈迦如来に祈っていると眼前に文殊菩薩が現れるという体験をするのです。この話については、後ほど詳しくお話しすることにします。
 その後、一一九八年に上覚の師僧である文覚上人から仏法興隆を託されて神護寺に戻りました。しかしまたしても、神護寺に騒動が起こったことにより、再び白上の地へと戻ることを余議なくされます。そして、一二〇三年にインドに渡ることを決意します。しかし実際には断念することになります。改めて二年後にもインド行きを計画するのですが、これもまた中止します。どちらも春日明神(かすがみょうじん)の託宣(たくせん)、つまり、神仏のお告げが大きな理由でした。「右耳切断」や、「インド行きの計画」からも、明恵にとって釈尊が精神的、信仰的にいかに重要な存在であったのかということをうかがい知ることができます。
 一二〇六年には、「摩利支天の夢(仮称)」を見ます。この夢については、後ほど詳しくお話ししたいと思います。一二一二年には、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を執筆します。この著作は、法然の著した『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』に対する批判書です。明恵が問題にしたのは、『選択本願念仏集』では「菩提心」がなくても念仏を唱えれば成仏できるとした点です。明恵は「他力であろうとも「菩提心」は必要である」という考えを持っていたため、法然の考えに納得がいかなかったのです。
 その後、一二二三年には、善妙寺(ぜんみょうじ)という尼寺を建立します。明恵の支援者、信者の中には女性信者も多くいました。それらの女性信者たちの、明恵を信奉し、多くを学びたいとの願いを受け、この尼寺を建立したのです。寺院名の「善妙」とは、明恵が尊敬する新羅の華厳宗の僧、義湘(ぎしょう)(六〇二~六六八)とゆかりのあった女性の名前を冠しています。そして一二三〇年には不食(ふじき)の病を発病します。今でいう消化器系の病気だと考えられています。明恵はたびたび病に悩まされましたが、この不食の病は日に日に重くなり、一二三二年ついに遷化されました。

釈尊への思い 釈尊への手紙 天竺への憧れ
 ある時、神護寺を離れて旅に出た明恵は、旅先から普段拝んでいる釈迦如来の仏像に対して手紙を送ります。仏像に対して手紙を出すなんて理解できない行動と思うかもしれませんが、これも釈尊を恋慕する明恵らしい行動であるともいえます。その手紙にはこう書かれていました。
 「わずかな期間だと思ってあなた(釈迦如来)の元から離れているけれども、いったいどうしていらっしゃるでしょうか。私(明恵)が山に帰れない間は、私の代わりにあなたのお世話は性憲(弟子)に頼んでいますので心配しないでください。早く帰ってあなたに会いたいと思っています。普賢菩薩も私と同じ考えだと思っています。あなたのことをとても恋しく思っています。大聖慈父釈迦牟尼如来御宝前」
 このように釈迦如来に対して、一般的な手紙の形式で書かれています。明恵にとっては、仏像の釈迦如来も生きた存在であったのだと思います。
 これと少し似た話もあります。今度は仏像ではなく島(苅磨島、現:苅藻島、和歌山県)に対しても手紙を送っているのです。その島は、明恵がかつて修行していた場所で、晩年になって島での修行時代を懐かしく思い、手紙を送ったのです。 また明恵は、この島で修行をしていたときに、海の中から石を拾い、生涯その石を大切に持っていました。海は釈尊のいるインドと繋がっているという思いから、その石を介して釈尊との関係を持とうとしていたのです。
 また、その一方で、もし自分がインドに生まれていたらどうなっていたかということも明恵は想像しています。明恵の言葉を弟子が書き残した『却廃忘記(きゃくはいもうき)』の中で、「もしもインドに生まれたら何もしないで、ただ五大遺跡などを巡拝し、釈迦如来と会ったような気分になり、勉強や仏道修行などもしなかったと思う」。インドへの憧れはあるけれども、日本に生まれて、釈尊の遺跡を巡拝することができないからこそ、釈尊へ一歩でも近づくために自身を厳しく律し、仏道修行に励むことができたのでしょう。
 先ほど触れましたが、明恵は、二度インド行きを計画しています。その思いの強さがわかるものに『印度行程記(いんどこうていき)』という旅程書があります。そこには長安についてからインドへ辿りつくまでかかる日数や距離が綿密に計算されています。中国やインドについて詳しい資料がない時代にもかかわらず立派な行程書です。この行程書の中にも釈尊への熱い思いが記されています。「印度は仏生国(ぶっしょうこく)なり。恋慕の思ひ抑へがたきにより、遊意のためにこれを計る。哀れ哀れまいらばや」。
 そして、さらに彼の釈尊への思いが強烈に表れているものに、「右耳切断」があります。明恵の生涯を記した『明恵上人行状』の中では行動を実行した理由が次のように書かれています。
 「いよいよ形をやつして、人間を辞し、志を堅くして如来(釈尊)の跡を踏まむことを思ふ。然るに、眼をくじらば聖教を見ざる嘆きあり、鼻を切らば洟垂りて、聖教を汚さん、手を切らば印を結ばむに煩ひあらむ。耳は切るというとも聞えざるにあらず。しかも形を破るにたよりあり」。
 釈尊は世俗と離れるために髪を剃ったが、この時代の僧侶は髪を剃ることが当たり前になってしまっていて、釈尊が髪を剃った経緯とは変わってしまっているため、釈尊の志を継ぐことをしなくてはいけないと明恵は考えました。しかし、眼をえぐり取れば経典は読めないし、鼻を削いだら鼻水で経典を汚してしまう、手を切ってしまったら印が結べなくなってしまう。しかし、耳であれば切っても音が聞こえないわけではないし、人として形を変えて世俗と離れるという点でも釈尊の思いに適うとして、仏眼仏母尊の前で右耳を切り落としたのです。
 異常ともいえる行動ですが、これこそ明恵の一番有名な、釈尊への強い思いが表れたエピソードだといえるでしょう。

歌人としての明恵
 次は歌人としての明恵についてお話しします。そもそも、明恵を歌人といっていいのかという問題もありますが、とにかく明恵は和歌を多く残しています。明恵の歌への姿勢は、弟子に対する言葉によく表れています。「和歌はよく詠まんなんどするからは、無下にまさなきなり。ただ、何となく読み散らして、心のまことにすきたるは、くるしくもなきなり」。和歌はうまく詠もうとしなくていい、何となく、心の思うままに詠めばいいと。明恵の和歌のうち、特徴的なものとして、次の歌が挙げられます。

「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
 
 これは明るい月を見たときに詠まれた歌ですが、心のままに詠むべきだと語ったその態度をそのまま表している歌であるといえます。しかし、心のままに詠んだといっても明恵の中では月は友達であり、宗教的にも大切な存在なので、月に対する親しみからこのような和歌を詠んだのかもしれません。

摩利支天の夢に関して
 明恵は生涯を通して多くの夢を書き記しています。今まで高山寺(京都市右京区)にあったとされていた「夢記」ですが、高山寺外にも現存することが近年多く確認されています。そこで今回は、山外で見つかった「夢記」のなかでも「摩利支天(まりしてん)の夢(仮称)」というのを紹介したいと思います。
 この夢は、一二〇六年に見たもので、四日分の夢が記されていますが、そのなかでも特徴的なものが次の夢です。
 「十二日あたりの夢はこのようであった。十五夜の空は、興趣この上なかった。満月が窕然と顕れ出た。深勝房がおり、言った。「今日は、(満月が)菩提心と同じような日である」と云々。」
 「菩提心」と「月」とを重ね合わせています。実際には深勝房という人物が重ね合わせているわけですが、明恵自身、「菩提心」と「月」を大切にしていました。また、「月」を観法の際に用いたりすることがあるため、「菩提心と月」を同一とする夢を見たのかもしれません。 この夢からも明恵の思想の一端がうかがえます。

晩年の明恵の思想について
 明恵の晩年の思想について少し触れます。明恵は弟子に対して、顕教も密教も差別なく良いものは取り入れて思想を形成すべきであると説き、弟子にそのどちらが優れているかということは考える必要はないといったのです。
 一般的に明恵は華厳僧とされていますが、明恵の思想には華厳だけではなく、真言宗などの教えも含まれています。彼は、顕教や密教という概念にとらわれず、どうすれば自身が一歩でも釈尊に近づけるか、また多くの人を教化できるのかということを考えていたのだと思います。

(構成/智山教化センター)