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智山教化センター

宕薬師フォーラム報告

平成27年9月10日 別院真福寺
第21回 愛宕薬師フォーラム

死後に“ソナエ”る十三仏信仰―“終活”という視点から見る十三仏信仰とは―

講師
東洋大学文学部教授
渡辺 章悟 先生
はじめに
 今日の講演は死後にソナエる十三仏信仰ということで、追善供養として死後に〝供える〟ということと、逆修として〝備える〟という二つの要素を持つ十三仏信仰を、「終活」というキーワードをもとにどう捉えていったらよいかを、皆さんと見ていきたいと思います。
 
十三仏信仰の背景
 私は群馬県高崎市の曹洞宗のお寺の生まれで、小さいころから母親の「ふーどうしゃーかーもんじゅー……」という十三仏の念仏を聞いて育ちました。葬儀の時には十三仏の掛軸をかけていましたし、檀家さんに掛軸を貸出ししたりしましたので、十三仏は身近な存在でした。
 昔から十三仏信仰は、寺院だけでなく、在家者の信仰としても全国に広まっていきました。私の実家のお寺には十三仏の厨子がありました。それはリュックのように背負うことができ、昔はそれを背負って十三仏を方々に説いて回ったのだそうです。こういったものは東北地方の山形県酒田市をはじめ、関西方面にも数多く広まっていきました。 
 私は仏教学を学んできましたが、学問としての仏教の中には十三仏信仰という 言葉はまったく出てきませんでした。しかし実際の日本仏教の信仰においては、十三仏はとても重要な役割を持っているといえます。恐らく日本人の死生観の根底をなしていると思います。そこで今、死への〝備え〟としてよくいわれている「終活」ということを、十三仏信仰をとおして考えてみたいと思います。
 
十三仏信仰の成り立ち
 十三仏信仰は、まともに一生を全うできないような乱世の時代、不安定な社会情勢である中世(室町時代頃)に生まれ、宗派を超えて信仰されてきました。日本では他の国と違って宗派の色合いが強いことが多いのですが、この十三仏信仰に関しては、ほとんどの宗派で用いられ、日本人の死後観、死生観に大きな影響を与えてきました。しかしこの信仰は、仏教における教義的な裏付けが経典などには見られない、ということがいえます。ですから日本人が考え出した日本人による信仰であるといえると思います。
 それともう一つ特徴的なのが、「逆修」です。これは生前に功徳を積むという考え方で、十三仏信仰が生まれたのは、追善のためではなく逆修が先でした。ですから、十三仏信仰を紐解くことは、昔の日本人が死をどのように受け入れて、死をどのように迎えたのか、ということを知る手立てとなるのです。

十王信仰から十仏、十三仏信仰へ
 図表を見ていただくと分かると思いますが、十三仏にはそれぞれ忌日があって、初七日忌から三十三回忌にそれぞれ不動明王から虚空蔵菩薩が配されています(図表参照)。この中で初七日忌から四十九日忌までの七日間ごとの魂の経過は、すでにインド仏教において考えられており、『倶舎論』にその記述が見られます。それ以降の百箇日忌から三十三回忌は、中国、日本で生まれたものです。
 図表の中にある十王は中国で生まれた信仰で、死後に亡者を裁く十人の王のことです。閻魔王は、よく知っていると思います。これは中国の道教の教えからきています。そして、そこに配されている仏さまは十王に対するそれぞれの救いの主としての役割を果たしています。ですから最初は十王に対する十仏という考えが生まれ、七回忌から三十三回忌までの仏は後から配当されたものなのです。

十三仏信仰の形態の変化
 十仏の最後にあるのは阿弥陀仏です。最後に救ってくれる仏が阿弥陀仏だということは、十仏信仰は阿弥陀信仰、つまりは浄土信仰であるともいえます。ですから十三仏信仰が出るまでは、阿弥陀三尊の種字が書かれた十仏の板碑(石碑)もよく見られます。特に現在の千葉県辺りで数多くみられるのは、この地域で阿弥陀信仰が盛んに行われていた証しといえます。その後、南北朝時代のころに十三仏信仰が形作られていくと、全国的に十三仏の板碑が多く建てられるようになり、その信仰を垣間見ることができます。 十三仏信仰が広まるにつれ、その中心仏が、十仏の阿弥陀仏から十三仏の大日如来、虚空蔵菩薩というふうに密教系の仏さまに変化してきます。禅宗系ではお釈迦さまが中心仏になっているものも見られます。
 掛軸の形態では、十一尊曼荼羅というものが鎌倉末期に作られ、それが今の十三仏掛軸のもとになっているということも最近の研究で分かってきています。その他にも石仏など、色々な形態で十三仏 が信仰されてきました。
 

お地蔵さまと閻魔さま
 中国で生まれた十王信仰は、日本に渡り、十仏、十三仏へと変化していきました。それでは、具体的にどのように展開していったのでしょうか。
 十王信仰の典拠である『仏説閻羅王授記四衆逆修生七斎功徳往生浄土経』が、唐の蔵川によってまとめられました。略して『預修十王生七経』といわれています。これらは十王とお地蔵さま、閻羅王、(閻魔さま)を中心に話が展開しています。
このお経が日本に入ってくると、厳しく裁く十王に対して救い手としての本地仏が配当されていきます。『預修十王生七経』をもとに、鎌倉時代に日本で作られた『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』には、地蔵菩薩が閻魔王のもとで発心して救い手となる因縁が書かれており、当時の日本の地蔵信仰も見て取れます。ですから日本においては、十王の中心に地蔵菩薩が座する形式の像などが多数つくられました。
 
十三仏信仰と逆修
 日本においては、関東地方を中心に十仏信仰が広まりますが、その十仏が変遷しながら各地に広がり、十三仏へと移っていきます。たとえば群馬県館林市にある十仏の板碑は、弥勒菩薩の所に大日如来が入っています。他にも金剛界、胎蔵界の大日と不空成就如来が入った十仏もあります。 十三仏信仰は、浄土信仰の十仏に大日如来の信仰が加わって今の形になったと考えられています。十三仏には大日如来、そして勢至菩薩が入っていますが、人気がなかったのか昔の十三仏には、勢至菩薩がないものも見受けられます。そこには胎蔵界大日如来を配していたりして、現在の形になるまで、さまざまに変化していったようです。
 板碑には逆修という字が彫られているものが数多くあります。なぜかというと板碑は、基本的には逆修による功徳をいただくために建てられたからです。
逆修には「七分全得」という考え方があります。これは、十三仏の功徳をいただく年回忌をするにあたり、遺族や親族が行う追善は七分の一の功徳しかなく、逆修をすることによって残りの功徳を得る。すなわち〝全得〟することができる
ということです。自身の生前の報い(業)があるので、追善だけでは功徳が補いきれないということです。現在十三仏信仰は追善の要素が大きくなっていますが、本来は逆修による信仰だったのです。〝逆〟というのは「あらかじめ」という
意味ですから、生前自分自身であらかじめ修めた功徳が、死後、仏さまの世界へとつながっていくということなのです。逆修の広まり 逆修の起源は平安時代、十世紀の中ごろといわれています。公家や天皇、摂関家など宮中で盛んに行われていました。逆修に関するもっとも古い記述には、九九四年に藤原道長が、金泥の法華経を十一部書写して逆修の仏事を行ったとあります。この現世利益の信仰は、鎌倉時代になりますと武家や名主層にも広がり、室町時代に入って庶民にも広まっていくのです。
 では次に、十三仏の逆修の起源についてみていきましょう。その起源を窺い知ることのできる文献が十四世紀ころに書かれた『弘法大師逆修日記事』です。これは、弘法大師とついていますが、弘法大師が書いたわけではありません。図表にあるように、この書物には、忌日があり、逆修日が決められ、十王、十三仏が配されています。そして十三仏の種字と引用経典が順に記載されています(図表参照)。また、鎌倉時代中期に成立した『拾芥抄』には、三十日仏名といって、三十の毎日違った仏さまを配して、これを縁日としたことが書かれています。こういったものを下地として、十三仏の逆修や忌日といったものが宗派を超えて形作られていったのです。
他にも道照禅師が、経典を納めたりしながらあちこちのお寺に逆修の巡礼を行っていたという記述も残っており、現在でも、逆修として十三仏のご真言を百万遍唱えるといったことが行われているところもあります。
 
 
終わりに

 全国には、各地に十三仏霊場があります。中でも昭和五十二年に開かれた淡路島の十三仏霊場がその始まりです。現在は十九の十三仏霊場が開かれています。私も巡礼が好きで、もちろん淡路島も巡りました。
 淡路島は〝阿波への路の島〟です。これは、弘法大師ご生誕の讃岐から高野山への道ということなんです。ですから淡路島のお寺は八割以上が真言宗です。そのお寺が中心となって昔から信仰していた十三仏をもとに作られたのが淡路島十三仏霊場です。十三仏霊場を巡る人々の思いはさまざまですが、霊場を巡るのはとても気持ちの良いものです。
 十三仏信仰は追善と逆修の両面がありますが、特に死というものが今より身近にあった時代、安心して死を迎えられるための準備(備え)として行っていたのが十三仏の逆修でした。それが今を生きる者への支えとなっていったのです。
 十三仏信仰とは、自身が死に対してどのように対峙すべきなのか、ということを示しているものであるといえます。これが昔から連綿と続けられてきたことは重要です。そして、限られた命をいかに生きるべきかを考えること、これが十三仏信仰における終活ということになるのではないでしょうか。

(構成/智山教化センター)