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智山教化センター

宕薬師フォーラム報告

平成28年2月7日 別院真福寺
第23回 愛宕薬師フォーラム

仏像(ほとけ)たちは何を語るか―仏像の背後にひろがる広大な世界に想いを馳せる―

講師
龍谷大学特任教授
宮治 昭 先生
はじめに
 日本における仏像研究では、伝統的に仏(如来)部、菩薩部、明王部、天部の四つのカテゴリーに分類するのが一般的です。日本には極めて多くの仏教尊像がありますが、この分類にしたがえば、それぞれの尊像が仏教世界(パンテオン)全体のうちでどのような位置にあるか理解しやすくなります。
 しかし、こうした分類による理解は、ともすれば各尊像の持つ歴史性・地域性・民族性といったものに対しては死角となりがちです。この分類は、あくまで日本の中世までに集成された図像集を基に整理したものであり、また、それぞれの尊像は、いずれも成立、変容、展開という歴史を持っていることにも留意しておく必要があります。
 本日は、こうした視点を持ちつつ〝無神論〟から出発した仏教が、インド、そしてアジア諸地域に広まる過程で、その地域の異文化・異宗教と習合してさまざまな仏教尊像を生み出していく様をお話します。
 
仏像の誕生
 仏教美術は、仏滅後、在家信者や僧たちの信仰の拠り所となった仏舎利を祀った仏塔(ストゥーパ)とその装飾を起源としています。仏教美術の最初期(紀元前二世紀頃)のものには、仏伝図が表されながらも、釈尊の存在は人間の姿ではなく、聖樹・聖壇などいわゆるチャイティヤで象徴的に表現されていました。これは、涅槃に到達した仏陀の姿は表現することができないと経典に説かれていることと関係するのでしょう。
 それでは、人体像としての仏像が造られるに到ったのはなぜでしょうか。それは、ギリシア人たちが西北インド(ガンダーラ)に入って来たこと、つまり、外来文化との接触に要因があると思われます。
 現在知られる最古の仏陀表現は、私見ではアフガニスタンのティリヤ・テペ出土のインド系金貨のものです(一世紀初め頃のものと推定)。その裏面には獅子と三宝標が表され、「恐れを知らぬ獅子が」と銘記されて、表面にはヘラクレスのような人物像が表され、「法輪を転じる」と銘記されています。これはギリシアの英雄と転輪聖王のイメージを融合した精神世界の王というイメージで仏陀を表現したものといえます。しかし、このような姿の仏像はその後、広まりませんでした。
 最初期の仏像は、ガンダーラのスワートから出土した一群の「梵天勧請」の場面の浮彫()彫刻(うきぼりちょうこく)()で、一世紀前半頃のものと思われます。菩提樹下で()()()坐(けっかふざ)()して、禅定印を結んだ釈尊を挟み、その両側に梵天と帝釈天が合掌している場面で表されているのですが、釈尊には梵天のイメージと帝釈天のイメージ、すなわち精神世界の主と世俗の王者、また「行者」と「王者」の二つのイメージが統合させて表されているのです。つまり、悟りを開いて精神世界の主となり、人々に説法することを決意して世俗の王のように恩恵をもたらすというエピソードで「救いの仏陀」の誕生と解釈できます。
 クシャーン朝時代(一世紀中頃~三世紀中頃)には、ガンダーラとマトゥラーで多くの仏像が造立されるようになります。ガンダーラ仏は行者のイメージを基にしつつ、ギリシアの神像、ローマの皇帝像のイメージを取り込んで、写実的な仏陀像を造り出しています。一方、マトゥラー仏もやはり行者のイメージを基にしていますが、力強いインド的なヤクシャ像の持つ偉丈夫相(いじょうぶそう)を取り込んで造られました。            
                
過去仏と大乗の仏陀像
 その後、仏教思想、特に仏身論の展開とともに、釈迦仏以外に過去仏も造立されるようになりました。過去仏信仰、つまり、釈尊以外にも過去世に仏陀がいたという信仰自体はバールフット、サーンチーなどで、紀元前二世紀以降に菩提樹や仏塔を七つ並べるなどして表されており、既に早くからみることができます。しかし、ガンダーラやマトゥラーでは、仏陀像が七体と弥勒菩薩が一体並置されたものが現れるようになります。また、過去四仏(七仏の最後の四体)、さらには、賢劫千仏の思想の影響とも見られますが、仏塔の周囲をぎっしりと仏陀像で装飾するものも現れました。
 過去仏の中には、燃燈仏(光り輝く仏陀)という特徴的な尊像があります。燃燈仏は、最初の過去仏であり、釈尊の前世であるメーガ青年に授記を与えるのですが、ガンダーラの連続する仏伝浮彫の最初の場面にもその様子が表現されています。アフガニスタンのカーピシー出土の燃燈仏は、両肩から火焔を発して表現されているのが注目されます。同様の表現がクシャーン朝のカニシカ王の金貨(二世紀)にも見られるように、焔肩の表現はイラン系の光明思想と融合していることがわかります。
 さらに仏身論と菩薩思想の展開とともに、菩薩の前世の功徳と誓願によって、大乗の「救いの仏陀」が出現してきます。
代表的なのは、阿弥陀仏と薬師仏ですが、これらは、仏伝や讃仏経典に説かれる釈迦仏の持っていた「無量の光を持つ」「無量の寿命を持つ」「医王である」といった性格が、ヒンドゥー教やまた、仏教が伝播する過程でイラン系、中国系の神格に結びつき、報身仏として独立した尊格として信仰されるようになったのでしょう。しかし、インドでは、銘文がないとその尊像を特定することが困難という事情もあるのですが、薬師仏の造像はほとんどなく、阿弥陀仏も極めて少ないです。
 阿弥陀仏の例を挙げてみますと、密教五仏(金剛界)のうちの一体としての作例ならばパーラ朝時代にはかなり存在していますが、それ以前のものとしては、はっきり特定できるのは、マトゥラー出土立像の両足と台座のみのものと、ガンダーラ阿弥陀三尊像(フロリダ州立リング・リング美術館所蔵/右脇侍の勢至菩薩は欠落している)のものなどしかありません。
 
菩薩像の誕生と展開
 ガンダーラには三尊形式の仏像が断片を含め五十例近くあり、真ん中が法身的な仏陀で、両脇侍が弥勒菩薩と観音菩薩と推定されます。弥勒菩薩は自ら努力し、修行し悟りを得ようとする「上求菩提」の性格を、観音菩薩は、他に対して慈悲心を起こして救いに導こうとする「下化衆生」の性格を担っています。
 この両菩薩の働きを象徴的に表現しているのが、「半跏思惟像」です。当初は、仏伝場面の「樹下()()耕(じゅげかんこう)()」で、シッダルタが命の儚さを「思惟」するポーズでしたが、ガンダーラ周辺域では観音菩薩が如何にして衆生を救うかを思惟するポーズとして定着しました。一方、中国では、兜率天上の交脚弥勒菩薩の脇侍として造形されましたが、その後、兜率天世界の素晴らしさを思惟するポーズとして独立し、韓国や日本で弥勒菩薩として信仰されました。
 では、以下に、弥勒菩薩と観音菩薩の展開についてお話します。
 弥勒菩薩は、上生信仰と下生信仰の隆盛とともに中央アジア、中国で盛んに造立されるようになります。死後に弥勒菩薩のいる兜率天に再生することを願う上生信仰に関係して、ガンダーラでは、兜率天上で交脚倚坐で説法する弥勒菩薩が造られますが、中央アジアの天に対する信仰と、イラン系遊牧民の王者のイメージ(例えば、ハルチャヤン出土の交脚倚坐の王侯像)を取り込み、さらには中国の神仙思想とも習合して、大きく発展していきます。
 一方、遠い未来に弥勒菩薩がこの世に下生して、釈尊の説法に漏れた多くの衆生を救うという下生信仰は、『弥勒下生経』に記されており、北西インドのダレルやバーミヤン(東西に二体あり。タリバンによって破壊されてしまったが東大仏の仏の龕の天井にはゾロアスター教の太陽神ミスラが描かれ、西大仏の天井には兜率天で説法している弥勒菩薩がそれぞれ描かれていた)、敦煌莫()高窟(とんこうばっこうくつ)()(椅子に座っている坐像である)などで大仏が造立されるようになりました(『弥勒下生経』には下生する弥勒菩薩は大仏として描写されている)。
 このように弥勒菩薩は中央アジア、中国では発展しましたが、インドでは、三尊像の脇侍、過去七仏との並置等の作例にとどまり、単独ではほとんど造像されませんでした。グプタ朝以後は、『サーダナマーラー』の「金剛座成就法」に記述されるように龍華を執り、頭前に仏塔を付ける姿が定着します。
 これに対して、インドで流行し、アジア全域に広まっていったのが観音菩薩です。グプタ朝以後は、大地から伸びる蓮華を執り頭前に化仏をつけるという姿が定着して、弥勒菩薩と対照的、相互補完的な特徴をもって展開していきます。
 観音菩薩の一番の特徴は、『法華経』「普門品(あらゆる方向に顔を向ける者の意)」に説かれるように「諸難救済」の働きです。これを表現したものとしてアウランガバードなどに、観音菩薩立像を中央に、危難(悪獣、海難、刀難…)に遭遇して観音菩薩に救いを求めている衆生の様子をその左右に四場面ずつ表しているものがあります。
 ポスト・グプタ朝以後(七世紀頃)からは、密教系の多臂観音がヒンドゥー教の影響を受けて盛んに造立されるようになります。それらは、右手で与願印を、左手で蓮華をとる二臂を基本に四、六、十二と次第に腕の数が増えます。一方、最終的には千本を具える千手観音が特に中国で信仰されました。これは、観音菩薩の働きや功徳が極めて大きいことを強調する造形と考えられます。
 ところで、日本でも密教系の観音は、変化観音(不空羂索、十一面、千手、如意輪、馬頭、准胝観音)として平安時代以降、信仰を集め造像されましたが、これらの観音は、不空羂索観音を除いてインドでの作例は少なく、インドではヒンドゥー教を取り入れた密教の観音が信仰されました(因みに、准胝観音はインドでは女尊であり、観音に含まれません)。
 なぜインドではこうした変化観音の作例が少ないのでしょうか。それは、インドにおいては、変化観音はいずれも陀羅尼と深く関わり成立し、尊像として造形して祀るより、実際の修法の場においてイメージとして喚起されるべきものだったからではないでしょうか。
 これに対して、変化観音に関する陀羅尼経典が中国で漢訳されてからは、尊像を中心とした儀礼や礼拝が重視されるようになり、尊像の造形化が行われるようになったのではないかと思います。
 
結び
 本日は、〝無神論〟から始まった仏教が多神教的なパンテオンを創りだしたその過程をお話しました。仏像がどのように成立、変貌、展開したかを、それが育まれた土壌の中で明らかにしたいと思って研究していますが、仏教世界は広大でかつ深遠です。皆さんには仏教の奥深い世界を僅かにでも感じていただけたならば幸甚です。

(構成/智山教化センター)